林 望 「知性の磨きかた」 読了

物知りになったら、もうそこでおしまいなんだ。そうじゃなしに、この本の読者、特に若い方々にいいたいことは、「まずは絶対に一つのことに邁進しなさい。しかも十年間一つのことをじっくりと修行して、揺るぎない方法というものを身につけなさい。それによって将来、どういうふうにでも応用がきくから」ということなんです。 P.22

音楽に限らず、それは何でも同じことです。趣味として一生続けて飽きない、実り多いということのためには、もうプロはだしでないといけない。そのためにはやっぱり若いときの努力がものをいいます。 P.44

つまり、知識なんていうものはさして重要じゃないのです。むしろ細々とした知識なんかはないほうが健全だ。それよりも、むしろ自分の経験のなかで一つの筋道を見いだしていくことのほうが大切なんです。そのために、片々たる知識というものは邪魔になる場合すらある、ということを私は特に強調しておきたい。ものを「見る」、そしてものを「知る」ってのは、そういう営為なんです。 P.34

まず一番最初の、「知性」とは何かということについていえば、まさに「方法」を身につけることである、ということです。それは何の学問の方法でもいいんです。ただし、身勝手な方法を身につけちゃだめなわけで、そこで大切なことは善知識を得ること、つまりいい先生につくということです。
で、いい先生とはどんな先生か、ということになるけれども、結局、いい先生というのは、「方法」を教えてくれる先生であって、知識を教えてくれる先生ではないということに尽きるでしょうね。 P.45-46

だから私は、内的動機のないところに、課題図書だの読書感想文だのというような制度的な形で、やみくもに本を与えると言うことは、そいういう危険をはらんでいるというこを宣告したいんです。無理に与えなければね、そういうつまらなかったなというような先入主をもたせる機会もあり得ないわけだから、何か内的な動機が沸き上がってきたときにはね、自分が求める本を自分で本棚から掴み出す。そのときを待つべきなんです。 P.114

ところが、それをたとえば図書館で借りてきて読んだとすると、その本は返してしまいますから、一週間後にはすでに身辺にないということになります。もし身近な書棚にでもそれが置いてあれば、何かのときにすぐに見ることができる。いちいち読み返さないまでも、置いてある書物の姿を毎日のように見かける。背表紙のタイトルの存在が、それだけで、その本を読んだ記憶をリマインドしてくれるわけです。何といいましょうか、書物がそこに存在して、ここにあるよ、ということを主張する、それは読書の、もう一つの非常に重要な要素だと私は思うんです。 P.131

書評というのはね、基本的に「この本読んでくださいね」というものでなきゃいけない。「こんな本はくだらないから読むな」というような書評は、読者の側からすれば何のメリットもない。ところが、そういう自己矛盾的書評はとても多いんです。 P.170

一日二十四時間しかない時間を有意義に過ごすということはね、常にそういう自分自身の目的をもって生きることなんだと思うんです。そうなってくると、余暇は余暇にあらず、仕事は仕事にあらず。そこで渾然一体となって、大岡信さんがいうところの「忙即閑」という境地に立ち至る。「忙中閑」じゃなくてね、「忙しい即ち閑」、忙しさそのものがすなわち閑雅なる生活であるということです。 P.183

極端な話がね、たとえばパリへ行って、一日中パリのホテルに寝そべって、ノートルダムの鐘がカランコロンと鳴るのを聞いている。あるいは絹のガウンでも着てね、ホテルのルームサービスに毎食運ばせてね、自分はそこで、だらけてオードリー・ヘプバーンなんかになったつもりで暮らすとかね。気が向くとぶらぶらと外へ買物に出ていって、また帰ってきて寝転がって本を読んでいるとか。こんなことをしたいなと思ってそれが実現できれば、それは最高の遊びでしょうね。 P.189

自分は努力したからそれでいいんだ、結果がでなくてもいいんだ、と、そういう自己満足は、私にいわせればよくないんです。やはり努力したことについては結果が出なきゃいけない。結果が何らかの形で出て、その出た結果については、しかるべく正当な評価を得られなければいけない。その評価を得るためには、やはりいろいろな努力をしなきゃいかん、と思うわけです。 P.191

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